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2013年9月23日(月)

9月20日、東海村村上達也村長が退任されました

  <涙ぐんで花束を手渡した秘書の高野さん>

              <退任式会場の出口に向かう>

 97年9月21日に就任された村上村長が、本領を発揮されたのはなんと言っても、JCO臨界事故の対応からではないでしょうか。
 私がはじめて議員生活に入った2000年2月時は、JCO事故に関連する様々な対応がまだまだあり、村は本当に大変でした。事故や事故を受けての住民の状況について説明をお願いしたいと、各地からの要求もあり、議員らも対応を迫られました。

 村上村長の対応では、事故直後に住民避難を決断されたことはあまりに有名です。当時の職員もよく頑張ったと聞いています。避難のためのバスの手配(原子力事業所が持っているバスなどお願いしたとか)や避難の周知など、突然の事故で緊張の中で、住民をどう守るか必死だったと思います。しかし、特にこの避難指示以来、議会の中には反村上派の行動が明確化してきました。
 
 当時国内最大級の事故でしたから村上村長は、村内何ヶ所かに掲げてあった「ようこそ原子力のまち東海村へ」の看板をすべて撤去しました。早速議会で「看板をはずして何の意味がある、直ぐに掛けなおせ」と質問があり、そのやりとりは辛いものがあったと思いますが、村長は頑としてはずしたままにしてきました。しかしそれは大正解でした。11余年後に原発の過酷事故(東電福島第1原発)が起きたのですから。

<職員や住民の方々からねぎらいの拍手で迎えられ役場玄関を出る>

 こんなこともありました。私たち日本共産党が「事故を起こしたJCOの沈殿槽を現物保存して、事故を風化させないよう、住民の目の届くところに設置したほうが良い」と、求めたときです。村長も「現物保存が良い」と判断し、意思表明をしました。議会ではまた早速、「ひどい事故をおこした沈殿槽を現物保存して誰が喜ぶか。解体すべきだ」と質問がありましたが、村長は意思を変えずにいました。そこへ現れたのが自民党のK代議士です。「解体費用は国が出すようにするから解体すべし」と、迫りました。村長は、ならば「復元可能な状態での解体にしてくれ」と条件をつけ、そのような解体が行われました。このように村長の意思は、実践に移すことが組織的に許されないこともあり、村長は、ぎりぎり粘ってできうる抵抗を示しました。

 実に村上達也さんは、村政が村民の立場でどうあるべきか、しっかり判断をお持ちの方でした。 
 後期高齢者医療が始まった当初、茨城県広域連合議会の議員となった村上さんは、制度の問題点を発言する場面があり、傍聴者の感動をよんだと聞いています。

 3.11以降の「脱原発」「東海第二原発は廃炉以外にない」の発信には、全国にたくさんの村上ファンを誕生させました。今回、惜しまれながらの引退となりました。この間村上さんがご自分の信ずる道として住民の立場に立ちきって進めてこられた村政運営のなかで、私たちが大いに共感できる政策は、後退させることのないようしっかり頑張らねばと心新たにしているところです。


                    <住民から寄せられた色紙を手に帰宅のための車に向かう>


 村上達也村長の退任にあたってのあいさつをご紹介します。


 村長職は退いても、村上さんのもてる力の発揮の場はたくさんあります。東海村と日本の発展のために引き続きご尽力されますよう期待いたします。